少年野球発祥の地 神岡町
羽州街道と一里塚
雄物川と神宮寺浜
町指定有形文化財
神社・仏閣
町指定無形文化財


秋田県と山形県境の大仙山を源とする雄物川は秋田領第一の大河で、その整備は慶長7年(1602)佐竹義宣が秋田へ入ってから始まりました。藩では水運を最大限に利用するため河湊や舟着場の整備に努め、その結果雄物川は、明治末期頃まで、土崎湊と雄勝、平鹿、仙北、河辺各郡とを結ぶ物資輸送の大動脈となったのです。

水路が利用されるのは、陸路より大量の物資をわずかの人数で安く運べるためで、雄物川は上り下りする舟で賑わいをみせていました。


当時の神宮寺浜

雄物川流域からは年貢米、薪炭、木材、鉱山物資などが藩蔵や土崎湊に川下げされ、廻船や北前船によって大阪、江戸など各地に運ばれました。また帰り舟では「上方物資」と呼ばれる衣類、紙、塩、砂糖、茶、タバコ、日用雑貨などが運ばれました。


「河湊」とは浜倉や浜宿があり、商取引が盛んで荷物を運ぶ道が整備された所で、「舟着場」とは浜倉などの設備のない、単に荷物の積み降ろしをする所です。これらは仙北郡だけでも28ケ所あり、中でも角間川、大曲、神宮寺、刈和野、新波、新屋の各湊が有名でした。

神宮寺浜は雄物川と玉川の合流点に位置するため、水路の拠点として重要で、浜には浜倉があり、舟運業者も集まるなど、活気にあふれていました。


現在の神宮寺浜

しかし明治38年(1905)奥羽本線の開通により、県内の諸物資の流れは大きく変わりました。鉄道は大量の物資を早く、安い運賃で安全に目的地まで運んでくれるため、列車輸送は年々急増、逆に舟輸送は減少し、運送に携わった舟主や船頭達は職を失い舟場を離れていきました。

このように、鉄道の開通は永らく繁栄を続けていた神宮寺浜に打撃を与え、舟運はやがて姿を消していきました。

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