少年野球発祥の地 神岡町
羽州街道と一里塚
雄物川と神宮寺浜
町指定有形文化財
神社・仏閣
町指定無形文化財


1.指定年月日
 昭和55(1980)年4月9日
2.所在地・所有者又は管理者
 八幡神社

棟札は、棟上げの際に工事の由緒や建築の年月、施主や工匠名などを記して棟木に打ち付けた木札のことである。
八幡神社の3枚の棟札は、それぞれ正応3(1290)年・元応元(1319)年・長享3(1489)年のものとされ、当地域の支配関係や同社の建築の変遷など、当時の背景を探る上で貴重なものである。


1.指定年月日
  昭和58(1983)年9月22日
2.所在地・所有者又は管理者
  八幡神社

社伝では、寛治3(1089)年、後三年の役ののち八幡太郎源義家が戦勝感謝のために奉納したというが、『神宮寺舊記帳』では建久3(1192)年に源頼朝が奉納したと記されているなど、未だ年代を特定するには至っていない。
しかし、寛政12(1800)年、松平定信編『集古十種』にもこの籏が収録されていることから中世の史料と推察される。


1.指定年月日
 昭和58(1983)年9月22日
2.所在地・所有者又は管理者
 八幡神社

十二天は方位を守護する護り法神で、密教ではもっぱら修法道場を守護するために祀られる。この画像は、かって神宮密寺において正月27日から28日まで不動護摩修法を営むときに使用された。脇侍を配せず主尊のみの立像は京都の教王護国寺の十二天図屏風(国宝)の形式に類似している。


1.指定年月日
 昭和58(1983)年9月22日
2.所在地・所有者又は管理者
 八幡神社

空海にいたるまで密教を相承した7人の祖師を真言七祖といい、大日如来をはじめとする付法の祖と、善無畏にはじまる伝持の祖の2通りがある。八幡神社のものは伝持の祖を描いたものである。
密教の請来とともに、9世紀初期から曼茶羅をはじめとする密教画の制作が盛んになり、11世紀から13世紀にかけて日本の仏画の最盛期を迎えている。真言七祖像は、前述の十二天画像とともに、真言密教や仏画文化を語る貴重な史料である。


1.指定年月日
 昭和61(1986)年12月16日
2.所在地・所有者又は管理者
 多郎兵衛稲荷神社講中

同社は、旧北楢岡村の肝煎りであった鈴木多郎兵衛家の氏神として、当家の屋敷内に祀られていたものである。神社の創立年代は明らかでないが、所蔵の棟札から、現社殿は文政13(1830)年に峰吉川(協和町)に建立された金比羅社を、明治11(1878)年に移築したものと推察される。構造は一間社入母屋造、平入り、向拝一間で町内では数少ない近世神社建築の一つである。


1.指定年月日
 平成4(1992)年9月24日
2.所在地・所有者又は管理者
 神岡町教育委員会

この検地帳は延宝4(1676)年のもので現在、本町で確認されている検地帳では最古のものである。各耕地毎の面積、生産量、所有者のほか、その後の新開発、洪水による欠損、所有者の変遷などが記されており、明治初年の地租改正まで使用されたようである。


1.指定年月日
 平成4(1992)年9月24日
2.所在地・所有者又は管理者
 神岡町教育委員会

延享5(1748)年から慶応4(1868)年までの、神宮寺における村支配の主要事項を記した記録集である。村の地勢や検地帳、松倉堰、市日、制札、神社仏閣に関することなどが記されている。


1.指定年月日
 平成4(1992)年9月24日
2.所在地・所有者又は管理者
 齊藤正一氏

この旧記帳は、「文政9(1826)年丙戌年惣改」とあり、記載内容は菅江真澄の『月の出羽路』「かさぎの里・神宮寺村」の項と同一であるが『月の出羽路』以外のものも付記されており、村の歴史や地理、民俗など知る上で貴重な資料である。


1.指定年月日
 平成4(1992)年9月24日
2.所在地・所有者又は管理者
 神岡町教育委員会

街道沿いに屋敷のある家々には羽州街道の伝馬業務が課せられていた。しかし、その負担が大きかったために、屋敷の一部を無尽などの抵当に入れることがあった。本書には、文政10(1827)年から明治初年にかけての伝馬義務各屋の変遷が記されており、当時の家並みの様相を伝えている。


1.指定年月日
 平成4(1992)年9月24日
2.所在地・所有者又は管理者
 神岡町教育委員会

天保11(1840)年の郷控の綴りである。秋田藩庁から郡方役屋を経て各郷村に出された文書を控え書きして保管したものである。同様のものに『町触控』が知られているが、天保11年分は欠けておりこれを補うものとして貴重なものである。


1.指定年月日
 平成4(1992)年9月24日
2.所在地・所有者又は管理者
 神宮滋氏

巡検使や目代が秋田藩へ訪れると神宮寺八幡宮へ参詣し、神社蔵の宝物を見せてもらうならわしであつた。当時、神宮密寺華蔵院の住職が退隠しており、峰吉川高善寺の住職が対応にあたることになった。
しかし、寺にも村にも前例の記録が残っておらず、藩担当役人や村方、神主などはこの対応に苦慮することになる。この日記は文政4(1821)年に2人の目代を迎えて送るまでの苦心のほどを克明に記したものである。


1.指定年月日
 平成4(1992)年9月24日
2.所在地・所有者又は管理者
 多郎兵衛稲荷神社講中

木造彩色のこの像は、多郎兵衛稲荷神社の本殿に安置されているが、もともとは別の場所に祀っていたものを合祀したものと思われる。製作年代や作者は不明であるが、江戸時代後期の富裕層増加に伴い、こうした仏像が庶民に広まっており、この像もこれらの一つと考えられる。

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